こんにちは、ミミです!
日本では、秋も深まりゆき、感じる冷たい空気に季節を感じて何もなくてもワクワクしています♪
さあ、今日は、作曲家のプッチーニについて、少し知って頂こうと思います。
ジャコモ・プッチーニは、1858年に生まれのイタリア人です。オペラ作曲家として成功をおさめました。
日本人ならなんとなくでも存在を知っているであろう『蝶々夫人』もプッチーニの作曲です。
他にも、『トスカ』『ラ・ボエーム』『トゥーランドット』
など、今でも劇場の演目に頻繁に登場する作品が沢山です!
そんなジャコモ・プッチーニは、トスカーナ地方にあるルッカという町で生まれ育ちました。ルッカは、ピサの斜塔のあるピサの近くです。
ルッカについては、美しく書かれているこちら↓の旅行ガイドでご覧ください。
プッチーニ家は代々、ルッカの街の大聖堂のオルガン奏者でした。教会のオルガン奏者というのは大変名誉ある仕事で、世襲制でプッチーニ家が守り、もちろんジャコモもそうなるだあろうと思われていたのですが、
当時はヴェルディがオペラ作曲家として大人気、大スターでした。ジャコモはヴェルディのオペラを見に行き、衝撃を受け、自分もオペラ作曲家になりたい!と志し、オペラ作曲家になるために、ミラノに出ていきます。
様々な援助を受けてミラノの音楽院を出た後、オペラの作曲コンクールに出品しますが落選・・・というのも、とても字が汚かったので審査不可能だったようです。苦笑
しかし、文化サロン(その時代は、貴族やお金持ちが主催して自邸で芸術家や知識人を招いてパーティーをしたり、出会いの場でした)で支援者を得てオペラを上演すると話題となり、その才能を感じた楽譜出版社リコルディ(現在でも信頼ある楽譜出版社として知られていますよ)がプッチーニと契約を結びます!
★楽譜出版社というのは、人気作曲家が楽譜を出したら、みんなが自分も演奏したいから購入するとか、人気オペラだと違う町で上演されたり、次々と楽譜が必要になり売れるわけです。作曲家も、もちろんそれによって豊かになれるので、今の感覚とは違いますね。
リコルディの支援もあり、プッチーニは数々の作品を書き上げて人気作曲家へと昇っていきます。
それはもちろん簡単なことではないのですが、エピソードをお話します^^
プッチーニは1本のオペラを書くのに何年も時間がかかりました。というのも、納得いく題材探しに時間がかかり、そして、題材(ヨーロッパ中の小説や、演劇作品に常に目を光らせています)が決まってからオペラ用の台本にするにも時間がかかりました。専門の作詩家2人掛りで進めたのは常で、作詩家に多くの注文を出し、書き直させ、たびたび口論になった様です。それだけ、プッチーニにとってはオペラを作曲するにあたって言葉が大切だったという事ですね。
そんな時間のかかるプッチーニのオペラの作曲を、リコルディは彼の才能を信じて辛抱強く待ち、支援し続けました。
それから、今でも上演され続けるオペラも、初演は大失敗!という事もよくありました。プッチーニの成功を嫉んだ者たちが初上演にお客として来ていて、ブーイングを浴びせたり、新聞の評論を悪く書いたりするのです。
今も世界最高の劇場のひとつであるミラノのスカラ座では数々のスキャンダラスな事件が起きた劇場です。
様々の困難を乗り越えて、プッチーニは世間に認められていきました。
簡単ではありますが、オペラ作曲家プッチーニにについてでした。
音楽と同時に、作曲家について知り、どんな思いで作曲したのか、どのような社会情勢や生活だったのかを知ると、音楽の新たな側面や、聞こえ方などを発見し、楽しみの深度が増すのではないでしょうか。
また他の作曲家もご紹介しますね。
クラシック音楽が皆様のお悦び、癒し、楽しみとなりますように。
それでは、また!